紅茶にカルダモンを。
あぐりという名前について
大学なのか、森なのか。 FPT Univesity
- 少し前の話ではありますが、ベトナムのFPT Universityの建築デザインが決定しました。施行場所のホーチミンは緑地面積が現在わずか0.25%であり、コンクリート、アスファルトによる都市の温暖化に悩まされており、今回のコンペはこうしたストレスからの解放と持続可能な都市の発展を見据えたデザインが求められ、選ばれたVo Trong Nghia architectsのデザインは木々が生い茂る山のイメージそのままの、まさに森といった姿をしています。
ホーチミンは旧サイゴンであり、カポックの木(アオイ科の落葉高木)の森に因んだ名前だと考えられており、今回の決定はまさに都市の原点への回帰であると言えます。
クメール語語源説
別の語源としてしばしば主張されるのが「サイゴン」で“Sai Con”(クメール語で「カポックの木の森」を意味する prey kor{prey = 森、kor = カポックの木)の翻訳語とされる}に由来するというものである。
wikipediaより引用
以前『大学なのか、森なのか。』というコピーで筑波大学のキャンパスが話題になりましたが、あちらは雑木林の中にどんとキャンパスを構えるのに対して、
FPT Universityはキャンパスの中も木々が生い茂る作りですので、大学の広報にこのコピーをそのまま使ってもいいくらいですね。
しかしながら高温多雨の熱帯モンスーン地域のホーチミンにこうした建物が建設された場合、蚊など感染症を引き起こす虫害にどうやって対処するのでしょうか、シンガポールのように殺虫剤の大量散布などが考えられますが公衆衛生と環境配慮とをどう両立して行く事になるのか、気になるところです。
Vo Trong Nghia architectsのその他の仕事はこちらからご覧になれます。
自分の足で立つしかない
内館牧子の「愛しすぎなくてよかった」読みまして。
http://www.amazon.co.jp/愛しすぎなくてよかった-内館-牧子/dp/4063237028www.amazon.co.jp
何故か実家に置いてあったんですよね、誰が買っていても嫌だな、と思ってしまうくらい、私はこの手の脚本家小説に出てくるどこかの金持ちイケメンと結婚して幸せになってやる、というキラキラ女史が苦手なんです。結局自分の手ではなく誰かにちやほやされる事で己を満たすのを至高とする生き方とでも言うんでしょうか、東村さんのタラレバ娘にも出てくる感じの。
みてくれや収入等を点数化して「彼だったら私に釣り合う」『いい物件』などと、買い物気分で男性を漁る女性。世の中の女性の半数以上に喧嘩を売る事になってしまうかもしれませんが、出来れば関わりたくないものです。
ストーリーはまさにご都合主義的で、タラレバ娘の倫子の書く脚本のような展開なのですが、最終的に主人公は『男に幸せにしてもらいたい』という甘えを捨て去り、一歩一歩地道に自分のキャリアを伸ばし、目標に向かって邁進する決意をし、そのスタートを切るという終わり方をするので『目の前の事を淡々と、そうしていけばキャリアが開ける』との思いを胸に日々過ごしている私の心に染み渡りました。少し悔しいのですが自分の嫌いなタイプの小説にこんなにも励まされてしまって、今回このように感想を書くに至った訳です。
しかしながら、結末で主人公が成功への一歩を踏み出した傍ら、序盤中盤で彼女を馬鹿にしていた女性や、高収入の男性と結婚して幸せを勝ち取った主人公の友人が軒並み不幸な目に遭っており、結局あの人よりはマシ、と他人の人生と比較する描写で終わるので女性の闇をひしと感じました。
読後感としてはトイアンナさんのこの記事を読んだ時と似た物があります。
憎めない狡さ
とある芸術作品をずっと眺めていた旨を作家さん本人に話したところ『どんなところが良いと思って見ていたの?』と言われ、ぼそぼそと思いつく限り挙げていったところ、『だよねぇ』『分かる!』を連発された。その方の作る物はわずかな条件の揺らぎで変化するため作る本人もなかなか制御が難しく、その偶然の結果としての作品を本人も純粋に楽しんでいるようで、我が物ながら自分の作った物の良さを誰かと共有出来るのは嬉しいのだそう。
しかしなんでしょうね、この言わされた感じは。こういうずるさを受容出来るのはやはりこの人の人間性なんだろう。
偶然性が左右する作品と言えば横浜美術館の蔡國強展はとても良かった。横浜美術館のエントランスすぐの広間で火薬を爆発させて作った作品の水墨画のようでいて筆の走りとは全く違った模様は見ていて飽きなかった。