明後日の素

二日後がもっと暮らしやすいように

絞り出された一言

寡黙な人の言葉は、どうも印象に残りやすい。

 

自転車のライトが100均で買ったとても小さく弱いものだったので、それじゃ地面が見えなくないの?と尋ねたら『私はここに居るよ、というのが判ればいいんだよ。』と。穏やかな口調で彼女はそう答えた。身の回りの自然や生き物を愛する優しい人だった。

 

それから半年ほど経ったある日、私は仕事の同僚の愚痴を彼女に零した。内容は、「馬鹿と言ってしまってはあれなんだけど、やっぱりその問題を考えるだけの最低限の地頭の良さがないと、この分野に参入してはいけないんだと思う。」といった事を述べていたと思う。すると彼女はとても悲しそうな声で『お願いだから馬鹿って言わないで。』と、消え入りそうな声で呟いた。

 

聞けば最近上司から面談の場で「お前は馬鹿か。」などを含め酷く罵られたそうだ。彼女の名誉の為に断っておくが、彼女はとても優秀だった。恐らく世界で渡り合っていく度量も、地頭の良さも、努力し続ける素直さや真面目さ、ひた向きさも持ち合わせていた。彼女の上司は以前も何人か人を潰してしまった事があったようで、彼女もそのうちの一人だった。度重なる上司からのプレッシャーで不眠になり、衰弱していた。そんな彼女が、これ以上は耐え切れないと、絞り出した言葉がそれだった。

 

そういう事があってから、私は他人に馬鹿という言葉を向けるのも、当てはめるのも止め、以前の自分を恥じた。

 

『馬鹿』などという、相手を罵倒するだけの言葉は、憎しみや悲しみしか生まない。現状の求められている能力に対して、相手が至らない状態を指摘したとして、それはその相手が一番良く認識している事だ。そんな生産性のない言葉を発するくらいならば、相手がもっと意欲的になれるように、励ましやアドバイスの言葉をかける方が、ずっと有意義な事じゃないか。誰だって初めはビギナーだ、そこから少しずつ淡々と前に進むしかない事は自分だってよく判っている筈だった。にも関わらず、相手が現状不達であるという事に苛立ち、萎縮させ歩みを鈍らせるような恥ずべき行為をしていたのだ。

 

彼女の小さな叫びは、愚かな私にその事に気付かせてくれた。今でも、月に一度は思い出す。